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    狂言のこと・・・伊勢谷宣仁

  • 人間国宝で狂言師の野村万作先生とは永年仕事上のお付き合いをさせて戴いているが、そんな狂言公演の最中ふと、不思議に思ったことが・・・。

    昨夜は有楽町朝日ホールで万作の会による「法師ヶ母」と「附子」の公演。この内の「附子」こそは狂言作品の最高峰の一つだと僕は思っている。一休さんのとんち噺でも知られるように、なにしろ物語がいい。主人は家を留守にするにあたり、桶の中に附子という猛毒(実は当時貴重な砂糖)が入っているので絶対に近づかないようにと言いおいて家を出る。その嘘から始まって、それを見破る過程の面白さ、そして大事な砂糖を全て食べてしまったことによる後始末の興味、そして最後のこの上もない言い訳の面白さ。それらが軽妙な科白(せりふ)と仕科(しぐさ)、そして狂言特有の擬音効果(酒を飲むとき=ドブドブ・・ドブ、飲み終わると=ピショピショ等)、シオリ(泣く型)、言い訳を終えた後のとぼけた小歌(音楽)等々でつづられ、簡潔でメリハリの利いた極めて高度な演出と相まって完璧といっていい作品に仕上がっている。狂言の醍醐味がここにあり、集大成された一曲といっても過言ではない。

    さて、ふと思った。えーっとこれって、一体誰の作品だろう?

    狂言は600年も前から、能会の一部として演じられてきた。その能は、例えば著名な「葵の上」の作者は世阿弥。「松風」も「熊野」も「敦盛」も同じ。上演の機会が多い「道成寺」はその父、観阿弥(観世流の開祖)。そして「隅田川」や「石橋」は観世十郎元雅。等々能は多くの曲の作者がわかっている。ところが狂言については、多くの解説本をみても作者は記されていない。不用意というか不見識というか、なんでこんなことが今まで気がつかなかったのだろうと恥じ入る。プログラムを毎回作っていても、作者を入れないのが当たり前になっていて・・・。

    能の大成者でもある世阿弥は「前略〜そもそも狂言とは、必ず衆人の笑ひどめくこと、俗なる風体なるべし、笑ひの内に楽しみを含むと云ふ、これは面白くうれしき感心なり〜後略」と記していて一定の関与がうかがわれるが、狂言作者としてはその名を留めていない?。

    因に「附子」は、13世紀鎌倉時代の仏教説集「沙石集」の中にその原型があるようだ。また日本各地の民話、朝鮮半島では干し柿に見立てたもの等々、広く東アジアに似たような噺が存在しているという。

    附子とは毒性のある植物、トリカブトのこと。野村萬斎師、石田幸雄師がいつにも増して絶妙な「二重奏」で満席の観客を魅了した。